20171022 人生の決定権は主体者である本人にある!

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今日のお昼は、珍しく、妻が近所の人気ラーメン店に行こうというので息子と一緒に行きました。(ふだん、妻は基本的に、そんなにラーメンが好きなわけではなく、わたしと仕方なく付き合いで入るという感じなのです)
支那そば「やまき」というところです。
素朴な味で、なかなか好きです。

まぁ、今回は、ラーメンの話と言うよりも、そこでのエピソードで考えたことを書きます。

妻は(ラーメンだけではないかもしれませんが)食が細いです。だいたい、どんなメニューでも一人で1人分食べられません。最近、富みにそんな感じになっています。まぁ、わたしもですけどね。歳を重ねるということはそんなものなのですね。ラーメン屋に入ると、(自分は)必ず、ご飯を追加するか、大盛りにするかが当たり前だったのですが、今では一人前で十分です。

で、ここは、(わたしの住む二本松では珍しく人気店なので)それなりに人が待つんですね。で、本日、台風の天候。昼間はまだ大雨とはいかないまでもそれなりに降っていました。

わたしたちが食べ終わる頃、それなりに店先で人が並んでいます。
わたしと息子は食べ終わり、あとは妻だけが食べ終わるのを2人で待っていました。
見た目、妻の食べ方は、ゆったりしていて、大げさに言うと、ダラダラしています。
(わたしも)息子も、待っている人のことを考えて、早く店から出たい、出ないといけないという気持ちでいました。それが息子からも伝わってきます。でも、妻は……という感じです。

やっと食べ終わり、料金を支払い、店から出た後、つい、家族だから言ってしまう一言を自動車の中で言ってしまいました。

わたし「店の前で雨に打たれて待っている人がいるんだから、もう少し早く食べるそぶりを見せてもよかったんじゃないの?」
息子「そうだよね。」
妻「……。あのね、あなたたちには、ゆったり、だらだらして食べていたように見えたかもしれないけれど、わたしなりに、早めに食べよう、迷惑かけないようにたべようと一生懸命だったんだよ」
わたし「そうなのね……。」
妻「なんだか、ラーメン、もう一人前食べられない感じになってきた……」
わたし「そうなのね……。」

いろいろと頭の中をめぐりました。
例えば、この数日、交わした妻との会話です。

高校受験になっても、わたしたちの目の前で、試験に向けて一生懸命やろうと映らない息子の姿。

たぶん、(自分自身を客観化できないので、美化している部分も多々あるでしょうが)わたしが中三時代、息子より、絶対的に勉強時間が長かったと思います。だから、それを考えるとイライラしてしまう親としての自分がいます。

でもね、それは、親としてのわたしからの視点なんですよね。
息子としては、息子の中で必死でやっているのだと思います。だって、息子がそう言っているんですから。物理的に、客観的に、わたしの勉強時間より短いからと言ってそれは、でも、息子にとっての「事実」なのです。

リジリエンス(レジリエンス)という面から考えてもそうなのかなと思います。

たとえば、管理職など上の役職についている人たちは、基本、プレッシャーやらストレスやらに強く、努力を継続的に行うことに慣れており、当たり前と思っている人たちです。
そういう人たちが、それに強いわけではなく、慣れていない人たちに、「自分だって大丈夫だったんだから」ということで接しても、通じない、ことがあるわけです。だって、その人の感覚は異なるわけですから。
これを、「甘い」と言い切ることもできるでしょう。

でも、そうじゃないんじゃないかな。
と思う私がいます。

そして、人生、「生きている」ことに価値があるわけだから、「強いる」ことに価値をもつ必要ないんじゃないかな。
と思うわけです。
それぞれが、それぞれの方向に行けばいいんです。
それが、自分の中で「満足」であるのなら。「幸せ」であるのなら。
「幸せ」を決めるのは、自分。
他人じゃありません。

© Takayuki Abe 2016