20170626 20170625 「第3回協働的な授業リフレクション研究会in東京」をふり返って

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悶々とし、いろいろと計画をした実験授業であったが、尻切れとんぼの形で終わってしまいました。うーん、わたしの計画では確実に20分で終了するはずで、もしかして万が一早めに終わってしまったら少し振り返りの時間でも取ろうかと考えていたくらいでした。

二つの要因があります。

一つは、いつもの貧乏根性です。20分の与えられた時間をギリギリの構成で授業を作っていたということです。時間があまり過ぎてしまったらちょっと嫌だなという考えのもと、時間設定をギリギリで作ってしまいました。

二つは、実際の授業中、みなさんが素敵に話し合ってくれていたことと時間が足りなさそうと思ってしまい、若干話し合う時間を長めに撮ってしまったことです。

それもこれも、現役教師でないからこその甘さ、鈍さ、でしょう。反省です。

ただし、「協働的な授業リフレクション」では、ダメだしをしない形で話が進むので、ちょっとした尻切れとんぼで授業が終わってしまっても、そこをみなさん指摘せずに、わたしの授業の中での「キラリ」を見つけて話してくださいました。

自分の中にも、「強み」や「よさ」があるということがわかった瞬間でした。みなさんご存知の通り、わたしはコンプレックスの塊といいますか、自信がない塊なので、みなさんが「よさ」を指摘してくださることになるほど、そういうものなのか…と自分のことが言われているにもかかわらず、第三者的というか客観的に物事を見てしまっている感じでした。

ですので、最後の授業者からのリフレクションを上條さんから促された時も、第三者的に自分を見てしまっていたので、解説者風になってしまいました。これも、どうも反省。

本当に意識して物事を見たり、考えたりしないと、すぐに「頭」で考えてしまうところがあります。

午後に、優太さんの「理想(こだわり)」の授業を見て、理想(こだわり)が異なるのだから、表出する授業は違うのは当たり前ですが、その授業をつくっていく過程が随分と異なることにいろいろと考え込んでしまいました。

自分が自分と対話して、深掘りして、導き出してきた「理想(こだわり)」を授業化していったときにとてもとても苦しい思いをしたわけです。それは、実際のところどうだったのだろう。すぐにどうのこうのと答えが出ないかもしれませんが、考え続けて見たいと思います。

とにかくいい機会を得ました。

なんだか、この「協働的な授業リフレクション」で出会う人たちの会話がとても面白いです。

これからの「授業観」を育てていく方々と対面していくようで、とても新鮮。

そういう意味でも、「協働的な授業リフレクション」を続けていく意味があると思いました。

新たな出会いと親しい方々との再会に感謝。

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本日夕方、昨日、「第3回協働的な授業リフレクション研究会in東京」に参加したゼミ生とわたしの研究室でふり返りをしました。(うれしいことに、ゼミ生が2人も参加していたのですよ〜。なんか、東京でゼミ生に会って、弁当を食べながら、いろいろと話ができるってうれしい。)

初めて、テーブル式のホワイトボードが役に立ちました\(^o^)/。
ちゃんと、ホワイトボードを生産的に使える人と語り合うと、しっかり使えるというよい例。このように書けるんだったら、いつでも、ホワイトボードテーブルを使って話し合いたいです。

ちょっと、話し合った内容は内緒。
でも、わたしとゼミ生さんの共通の志向や方向性とが重なって、二人で、なるほどなぁというふり返りができました。そして、次へ進むときの視点というか課題が見つかりました。

最後の最後。

肝心な、わたしの授業に対しての「協働的な授業リフレクション」の部分について書いていません。

上のホワイトボードに書いているとき、ゼミ生さんから
「先生は、授業者としてどのように感じたのですか?」
と問われました。

授業の終わり方に少しモヤモヤ感のあったわたしは、そこに少しのこだわり(黒い塊)がありつつも、ポジ出しをしていくこの時間では、その「黒い塊」について触れる人は誰もいません。
その代わり、各自の、こだわり、理想で、わたしの授業の「ここ一番!」を見つけて語ってくれます。各自の「ここ一番!」は当たり前ですけど、その各自の「よりよいもの」「あこがれのもの」をもとにしての指摘です。資料の出し方や、学修者同士の発表、話し合いの様子、わたしの授業開始のインストラクション、課題設定……とそれぞれに、そうかぁ、そういう部分の自分のよさ、強みがあるのかと自分の中では、こだわらずに、なんとなくやってきたこと、あたりまえにやってきたこと、意識していなかったことを指摘してもらって、自分の肯定感が増しました。そして、自己認識が少し進んだように思います。

わたしの立ち居振る舞いの話になり、
「阿部は学習者が活動し始めたら、存在感がなくなった(消した)」
「安心できる場の設定に腐心していた」
「フラジャイル(松岡正剛:些細で微弱な現象に目を凝らし耳を澄ますことである)であった」
「空(クウ、kuu)を感じた」
という話がつながりました。
これは、わたしが『学び合い』を中心とする学習者中心の授業を考えていくときに、当たり前のようになってしまった感覚です。(もちろん、こういう立ち居振る舞いをよしとしない方もいるでしょうが)わたしは、学習者が自分たちの話し合いに集中して話し合える環境にするための一つとして、私を意識してほしくないということもあって、自然にそういう姿になっているのでしたら、とてもうれしい、幸せな価値づけをしてもらったように思います。

「理想の授業」をつくりだすのは、なかなか大変なことですが、その後の「協働的な授業リフレクション」に関しては、わくわく感しかないので、こういうことをどうにか現場に落とし込んでいけないかと思っています。


© Takayuki Abe 2016